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日本の「おしゃれな街」を店の名前で覚えようとすると、たいてい失敗します。服の店は、開いて、移って、閉じます。数年前の雑誌を手に歩くと、載っていた店がもう別の店になっている。東京では、それがふつうです。
けれど通りは残ります。そして通りには性格があります。人が集まる理由、店が出せる理由、そこにいる人がどんな格好をしているか。その性格は、店より何十年も長生きします。だからこの記事は、店ではなく通り(ストリート)の単位で日本の若者の街を見ていきます。
もうひとつ、書き方の約束を先に。ここで扱うのは「いまどこが流行っているか」ではなく、そこがどういう経緯でそうなったのかです。あとで気づくのですが、どの通りの由来も似た形をしています。「賃料が安かった」「そこにいた誰かが場所を貸した」「その人たちが知り合い同士だった」。その話は最後にまとめます。

1. 表参道(Omote-sandō)——参道が並木道になり、米軍住宅がアメリカを持ち込んだ
場所:東京都渋谷区。JR原宿駅/東京メトロ明治神宮前駅・表参道駅。明治神宮の入口から青山通りへ、ゆるやかに下るケヤキ並木の通り。
この通りは、もともと神社への参道です。1920年に明治神宮が完成し、それと同時に表参道が開通しました。「表参道」は名前のとおり、明治神宮へ向かう表側の参道です。神宮ができると浅草から露天商が移り住んで土産物店を営むようになり、戦前の原宿には約30軒から40軒の土産物店があったと記録されています。参道の開通後は宅地化が進み、1927年に同潤会アパートが完成、1928年に明治通りが開通しました。
街の性格を決定的に変えたのは、戦争のあとです。近くにあった代々木練兵場が接収され、アメリカ軍の宿舎ワシントンハイツが建ちました。表参道は、そこで暮らすアメリカ人の散歩コースになります。すると彼ら相手の土産物店としてキデイランドやオリエンタルバザーが開きました。日本のほかの街が焼け跡から立ち直っていたころ、この一角では店の客がアメリカ人でした。
そしてもうひとつ、地味だけれど効いた出来事があります。1957年、原宿・代々木・千駄ヶ谷は東京都内で初めて「文教地区」に指定されました。教育環境を守るための都市計画上の指定で、風営法の適用を受ける業種、いわゆる歓楽街的な商売の営業が制限されます。神宮のおひざ元が歓楽街になることへの住民の拒否感が背景にありました。この指定のおかげで、原宿は夜の街にならないまま若者の街になりました。のちに中学・高校の修学旅行(学校ぐるみの団体旅行)の生徒が大勢来る街になれたのも、この指定と無関係ではないでしょう。
1964年の東京オリンピックが次の転機です。ワシントンハイツは返還が決まり、1963年12月に接収解除。敷地の南側に国立代々木競技場が建ってNHKが移り、北側は選手村になりました。放送局が来たので、文化人や芸能人が日常的に出入りする街になります。
いまの表参道は、この歴史の上に海外の高級ブランドの旗艦店が乗った姿です。1996年にセントラルアパート(後述)が解体され、跡地には1999年にディーズ原宿が完成してGAPの旗艦店が入りました。2001年のエスキス表参道にシャネルやイヴ・サンローランが入り、2002年にルイ・ヴィトン、2004年にクリスチャン・ディオールとトッズ。2003年には同潤会アパートが取り壊され、その跡地に2006年、表参道ヒルズが開きました。ベネトンの会長ルチアーノ・ベネトン氏はこの通りを、ミラノのモンテナポレオーネ通りやローマのコンドッティ通りに匹敵する街路だと評したと紹介されています。
歩くときの見方。表参道は「大人の通り」です。並木の下の広い歩道を歩きながら建築を見る通りで、若者のストリートスタイルはこの通りから一本入った細い道にあります。表参道は骨格、面白い部分は肋骨のほう、と思っておくと迷いません。
2. セントラルアパートと「マンションメーカー」——日本のデザイナーズブランドが始まった場所
通りの話の前に、1軒の建物の話をさせてください。1958年、表参道と明治通りの交差点に面してセントラルアパートという建物が完成しました。もとは住居用でしたが、1960年代に入ると1階が店舗、上の階が事務所になり、東京オリンピックの前後から、カメラマン・コピーライター・雑誌編集者・イラストレーター・映画監督といった作り手たちが事務所を構えるようになります。操上和美、宇野亜喜良、矢崎泰久、浅井慎平、若松孝二、糸井重里といった名前が挙げられています。1階と地下には喫茶店があり、とりわけ「レオン」は打ち合わせ場所として多くの作り手を集め、事実上のミーティングルームになっていました。
この空気のなかから、日本のファッションの原型が出てきます。1960年代から1970年代初めにかけて、原宿や青山でマンションの一室を借り、少人数でデザインから製造・販売までを行う作り方が広まりました。当時これは「マンションメーカー」と呼ばれました。荒牧太郎の「マドモワゼルノンノン」、大川ひとみの「MILK」、菊池武夫の「ビギ」、川久保玲の「コム・デ・ギャルソン」、松田光弘の「ニコル」。原宿にそれが集まった理由として挙げられているのは、街の文化的・環境的な魅力、渋谷や新宿への行きやすさ、そして当時は周辺より家賃が安かったことです。
コム・デ・ギャルソンは川久保玲が1969年に立ち上げ、1973年に法人化されたとされます。本社は港区南青山。表参道を青山側へ渡った先、青山通りの裏の静かな道にブランドが集まっているのは、このころの名残です。
1970年に「an・an」、1971年に「non-no」が創刊され、両誌がくり返し原宿特集を組んでマンションメーカーの服を紹介しました。読者は「アンノン族」と呼ばれます。雑誌が街の地図を配った、と言ってもいいでしょう。さらに1972年に地下鉄千代田線の明治神宮前駅・表参道駅、1978年に半蔵門線の表参道駅が開業し、北関東や神奈川からも若者が来るようになりました。安い家賃・雑誌・地下鉄の3つが、この街を全国区にしています。
3. 竹下通り(Takeshita-dōri)——歩行者天国と、日曜日に踊っていた人たち
場所:JR原宿駅の竹下口を出た正面。全長350メートルほどの、毎日午前11時から午後6時までは車両が入れない細い道。
竹下通りに当たる道は1909年の地図にすでに載っていて、表参道や明治通りより古い道です。それでいて発展はいちばん遅れました。最初のブティックができたのは1970年。転機は1974年、竹下通りと明治通りの交差点に原宿初のファッションビル「パレ・フランス」が開いたことでした。カルティエやゲランが入り、ラフォーレ原宿が台頭するまでは原宿のランドマークです。原宿駅からパレ・フランスへ歩く人が通るので、竹下通りに店が並び始めました。目的地が先にできて、通りが後から太った道です。
1976年と1983年に「原宿といえばどこを思い浮かべるか」を尋ねた調査を比べると、1983年には竹下通りの認知度が飛躍的に上がり、10代から20代は表参道ではなく竹下通りを原宿の中心と捉えるようになっていた、という結果が紹介されています。十年足らずのあいだに、街の重心は並木道から路地へ移っていました。
ここで日本の若者文化の名場面が起きます。1977年、原宿で歩行者天国(ほこてん)が始まりました。日曜日に車を止めて道路を人に開放する制度です。翌1978年に「ブティック竹の子」が開店し、1979年、その店名を由来とする「竹の子族」がほこ天に現れます。赤や黄色やオレンジの法被風のガウンにハーレムパンツ、足元は学校の上履き。真ん中に置いたラジカセのディスコミュージックに合わせて、輪になって踊る。最盛期の1980年から1981年夏ごろには数百人が踊り、テレビで報じられて全国から観光客が来ました。そして1981年末、勢いは急に衰えます。2年半ほどの現象でしたが、原宿の名前を全国に知らせた決定打になりました。
その後の竹下通りは、有名になった代価を払うことになります。1980年ごろから修学旅行生が大量に訪れる街になり、テレビタレントのグッズを売る「タレントショップ」が並びました。1989年の最盛期には原宿全体で78店舗、うち42軒が竹下通りに集中。バブル崩壊で1991年末ごろから撤退が始まり、1993年には多くが消えました。
タレントショップの林立で賃料が上がり、観光客向けの店が増え、客層が低年齢化した。それを嫌って、ファッションの店が竹下通りを出ていきました。その受け皿になったのが、明治通りの東側・表参道の北側の一帯。のちに「裏原宿」と呼ばれる場所です。
4. ラフォーレ原宿と、DCブランドの十年
1978年、森ビルにとって最初の商業施設としてラフォーレ原宿が開業しました。当初は高級婦人服ブランド中心の構成でしたが、原宿に来る若者のニーズと噛み合わず、売り上げが伸びません。1980年、経営方針を大きく変えます。「MILK」「ビギ」「コムサ・デ・モード」「ビバユー」「バツ」「アトリエ・サブ」——地元原宿のマンションメーカーをテナントに入れたのです。これが当たりました。
1980年代の日本のファッションを表す言葉が「DCブランド」です。デザイナーズ(Designer's)のDとキャラクターズ(Character's)のCを合わせた和製の言葉で、マンションメーカーから育ったブランドたちがその中心でした。1981年、パリ・コレクションで川久保玲と山本耀司が発表した全身黒づくめの作品が世界に衝撃を与えます。その影響で1983年前後の原宿には全身を黒で統一した「カラス族」が現れました。黒は、日本のストリートファッションの定番色としてここで根づいたとされています。
1985年から1986年の最盛期。ファッションビルのバーゲン初日には早朝5時ごろから行列ができ、ラフォーレ原宿の列は原宿駅まで届いたと記録されています。そして1987年、DCブランドは急速に下火になりました。似た服が市場に氾濫して「多品種少量」という前提が壊れたこと、円高で欧米ブランドが安く入ってきたこと、急成長に会社の側が追いつけなかったこと。挙げられている理由はこの3つです。
ラフォーレはその後、日本のロリータ・ファッションの発信地になっていきます。「MILK」から独立した「シャーリーテンプル」「ジェーンマープル」があり、1989年にジェーンマープルがラフォーレに入って人気を集めました。ロリータの源流は1980年代後半のロマンティックな装いのDCブランド、「MILK」や「ピンクハウス」にあるとされています。
ロリータについて一言。英語圏では名前のせいで誤解されることがありますが、日本のロリータ・ファッションは着る本人の趣味の体系であり、誰かに向けた記号ではありません。特徴は「流行に追随しない」こと。全体の流行が変わっても、細分化されたそれぞれの流れの中で独自性を保ってきた、と説明されます。流行への疲れに対するひとつの答えとして読むことができます。
5. 裏原宿とキャットストリート(Ura-Harajuku / Cat Street)——賃料が下がった建物に、知り合いが順に入った
場所:明治通りの東側、表参道の北側の路地の集まり(神宮前3〜4丁目あたり)。キャットストリートは渋谷の宮下公園前あたりから明治通りの一本裏を並走して表参道へ抜ける、細長い遊歩道。もとは渋谷川という川で、川に蓋をして地下に流し(暗渠)、その上が道になっています。
「裏原宿」は行政上の地名ではなく通称です。表通りより後から発展したので「裏」。ここが日本のストリートファッションの本場になった経緯は、はっきりしています。不動産です。
バブル期、原宿の地価が高騰し、固定資産税や相続税を払えない住民が街を離れました。1980年代後半には神宮前3丁目町内会で1年間に約100世帯が転出したとされます。売られた土地には複合ビルが建ち、残った住民も自宅をビルに建て替えてテナントを入れました。そしてバブルが崩壊し、そのビルの賃料が下がった。空いた小さな区画に、若いデザイナーやブティックの経営者が続々と入居します。裏原宿は、バブルの後始末から生まれた街だと読めます。
もうひとつ、この街の特徴は人脈で広がったことです。「MILK」の大川ひとみが、自身のファッションショーのスタッフだった藤原ヒロシを通じて、長尾智明(NIGO)と高橋盾を知ります。大川は二人の才能を認め、1993年の「NOWHERE」開業に際して服の製作場所を提供するなどの支援をしました。二人の成功は、二人が出た服飾の学校、文化服装学院の同窓生を中心とした友人たちが裏原宿に店を出すきっかけになります。以後、店の経営者同士はたいてい面識があり、なくても共通の友人がいる、という距離感で街が埋まっていきました。貸す側にしても、信用のある人の紹介で入る店子なら貸しやすかったでしょう。
この街から出たブランドが、いまも世界で名前を知られています。NIGOが1993年に立ち上げた「A BATHING APE」(ア・ベイシング・エイプ、通称BAPE)は、2011年2月に香港のアパレル企業I.Tに事業を買収され、商標もI.Tが持っているとされます。高橋盾の「UNDERCOVER」はのちにパリ・コレクションに参加しました。女性向けの代表としては、1995年にラフォーレ原宿へ出店した「X-girl」が挙げられます。
裏原系の作り方そのものも、この街の発明でした。複数のデザイナーやブランドが共同で商品を開発する「コラボレーション」、そして共同開発した商品に複数の署名を入れる「ダブルネーム」。いま世界中のブランドが当たり前にやっているあの形式は、小資本の店同士が手を組む必要から生まれたものです。少数生産なので手に入りにくく、それが値段を押し上げました。
着こなしのほうも、DCブランドの時代とは逆の考え方です。ひとつのブランドで頭から足まで揃えるのではなく、サーファー、ライダー、スケーター、ヒップホップ、パンクといった別々の文化のスタイルを混ぜる。統一感のなさが特徴、という珍しい定義のされ方をしています。それまでの若者ファッションが若い女性中心だったのに対し、裏原系は若い男性が主導した点も指摘されています。
そして終わり方も不動産です。ナイキ、リーバイス、アディダスといった大企業が裏原系のデザイナーと組むようになり、街の地価が上がって新規参入が難しくなり、家賃の値上がりを嫌った有名店が原宿の外へ出ていって、21世紀に入るころに裏原系のブームは終わりました。始まりも終わりも、理由は同じでした。
その明治通りには、1998年に「ユニクロ」が初の都心型店舗としてユニクロ原宿店を開いています。さらに2008年にH&M、2009年にフォーエバー21が原宿に出店し、開店時には長い行列ができました。個性を競う街に、安くて速い服が入ってきた瞬間です。
1990年代後半のキャットストリートに店が増えたのは、明治通りと表参道が混みすぎたからでした。人が多すぎる通りを避けて一本裏で開く、というのは裏原宿の成り立ちとまったく同じ動きです。加えて、裏原宿と渋谷を行き来する人がこの道を通るので、人通り自体が増えました。2つの街をつなぐ抜け道が、それ自体で街になりました。
6. 渋谷公園通り(Kōen-dōri)——通りの名前のほうが先に変わった
場所:渋谷駅から北へ。神南一丁目交差点から渋谷区役所前交差点まで、約450メートルのゆるい上り坂。突き当たりの先にNHKと代々木公園があります。
この通りの話は、名前から始まります。1970年に渋谷区役所と渋谷公会堂が現在地に完成し、その道は「区役所通り」と呼ばれていました。役所へ行く道。それだけの名前です。
1973年6月14日、西武百貨店系列(当時)の渋谷PARCOがオープンします。これを機に、当時の渋谷区役所通商店街の発案で名前が「渋谷公園通り」に変えられました。由来は2つ。イタリア語で「parco」は「公園」を意味すること。そしてこの坂を上りきると代々木公園に出ること。オープン時のキャッチコピーは「すれちがう人が美しい〜渋谷公園通り〜」でした。
名前を変えたあと、街の側が名前に追いつきます。1977年に歩道が拡幅され、1978年に東急ハンズが開店、ベンチやごみ箱が置かれました。1978年5月には『サンデー毎日』が「今、若者に一番人気のある街は、東京・渋谷の公園通りである」と報じています。改称からわずか5年です。
この通りは音楽の街でもあります。坂の下にはライブハウスが集まり、坂を上ると渋谷公会堂、NHKホール、国立代々木競技場と会場が大きくなっていく。そこから、ミュージシャンが人気とともに会場を大きくしていく様子を指す「公園通りの坂上がり」という言い方が生まれた、と紹介されています。坂の勾配が、そのままキャリアの比喩になっている通りです。
7. 道玄坂と109、そしてセンター街——渋谷のもう一つの流れ
場所:渋谷駅のハチ公口(出口の名前です)の正面がスクランブル交差点。そこから西へ入るのがセンター街、左手の坂が道玄坂。その入口の鋭角の角地に立つ円柱のビルがSHIBUYA109です。
渋谷のファッションには、公園通りとは別の流れがあります。しかもそれは企業同士の競争から生まれました。セゾングループ(西武系列)が宇田川町・公園通り側を開発したのに対抗して、東急グループが東急本店通り(現在の文化村通り)へ客を引くために作ったのが109です。1979年4月28日、「ファッションコミュニティ109」として開業しました。
名前の由来は語呂合わせです。「東急(とうきゅう)」を数字にすると「10-9」で「いち・まる・きゅう」。営業時間が午前10時から午後9時まで、という意味も込められています。設計は建築家・竹山実で、鋭角の敷地を活かした円柱形のエレベーター塔(シリンダー)が特徴。スクランブル交差点に立つと、まず目に入るのがこの筒です。
客層は途中で入れ替わっています。開業当初は25歳から39歳の女性向けテナントを集めていましたが、その後方針を転換し、いまは15歳から24歳の女性向けがほとんどを占めるとされています。1989年に名前は「SHIBUYA109」へ。買い物客のあいだでは「マルキュー」と呼ばれます。客の年齢層が、上から下へ動いたビルです。
その隣のセンター街は、地形からして渋谷らしい通りです。この道は宇田川という川を暗渠にした上に作られました。1955年ごろの区画整理より前、この一帯には住宅と商店が密集していて、渋谷駅前へ直接つながる街路はありませんでした。センター街は、川と区画整理が作った比較的新しい道です。2011年9月26日には、メインストリートが「バスケットボールストリート」に改名されています。「怖い・危ない街」というイメージを変える目的でしたが、この名前はほとんど普及しなかった、と資料のほうが正直に書いています。
渋谷が原宿と決定的に違うのは、ストリートの側から流行が出たことです。1987年ごろから1990年代初頭にかけて流行した「渋カジ」(渋谷カジュアル)は、単一ブランドで揃えるDCブランドとは逆に、輸入ジーンズやTシャツを各自でアレンジして着るスタイルでした。雑誌が先導したのではなく街から出た流行で、「送り手主導の時代」から「ストリート発の時代」への転換点とされています。その先に、渋谷のギャル系があります。原宿がアナーキーでミステリアスな方向へ行ったのに対し、隣り合った渋谷はまったく違うストリートファッションを生んだ、と整理されています。歩いて行ける2つの街が、逆方向に発達した。この記事のなかで、ここがいちばん不思議なところです。
8. 下北沢(Shimokitazawa)——線路が地下に入って、1.7kmの空きができた
場所:東京都世田谷区。小田急小田原線・京王井の頭線の下北沢駅。渋谷からは井の頭線、新宿からは小田急線で、どちらも数駅。
下北沢は、小高い丘を挟んで駅があり、狭い街路が入り組んでいます。この地形のせいで大きな区画が取れず、周辺住民向けの雑貨屋・古着屋・生地屋が古くからありました。かつては「コットン・タウン」と呼ばれて注目された時期もある、と紹介されています。「若者の街」「古着屋の街」「ファッションの街」「サブカルチャーの街」。呼び名が4つ並ぶ街です。
服だけの街ではありません。1982年11月3日、客席数386席の本多劇場が開館しました。以来、下北沢は小劇場の街です。芝居を観に来る人と、古着を買いに来る人と、ライブを観に来る人が同じ通りを歩いている。下北沢の空気は、この混ざり方から来ています。服屋だけの街は、こうは混ざりません。
近年の大きな出来事は鉄道です。東京都と小田急電鉄が小田急線の連続立体交差(地下化)を進め、下北沢駅を中心に世田谷代田駅から東北沢駅までを地下化しました。その結果、地上に全長約1.7kmの線路跡地が生まれます。ここに作られたのが「下北線路街」です。線路の跡が細長い公共空間になり、店や宿や広場が並びました。
この再開発には長い反対運動と訴訟の歴史がありますが、結果としてこれまでの文化を活かす方向で進められ、渋谷の再開発ほど街の性格が変わらなかったという評価があるとされています。街の建て替えの話としては、珍しい着地です。
9. 高円寺(Kōenji)——14の商店街と、家賃の安い部屋
場所:東京都杉並区。JR中央線の高円寺駅(土休日は各駅停車のみ停車)、東京メトロ丸ノ内線の東高円寺駅・新高円寺駅。新宿から中央線で数駅。
高円寺の成り立ちは、説明が短くて済みます。大規模な小売店舗が少なく、そのぶん商店街が発達しました。高円寺地区には名前が明確な14の商店街があります(純情商店街、ルック商店街、パル商店街、庚申通り商店街……)。若者向けの古着屋・雑貨店、安い定食屋、書店・古書店、小さなライブハウス。この組み合わせが駅の周りに詰まっています。
そして住宅です。高円寺には一戸建てや家族向けマンションのほかに、学生・独身者向けのアパートやワンルームが多く、一人暮らしの若者に人気があります。若者が住んでいる街の商店街だから、若者向けの店が成り立つ。原宿や渋谷が「よそから来る人のための街」だとすれば、高円寺は住人の街がそのまま若者の街になったタイプです。
店の入れ替わりは激しく、それでいて戦前からの老舗も多い、と説明されています。新陳代謝と持続が同居しているのは、家賃と商店街組織の両方が効いているからでしょう。8月の終わりの週末には駅前の通りで東京高円寺阿波おどりがあり、駅も周りの店も見物客で大きく混みます。
正直に書いておくこと。高円寺の古着屋が何軒あるか、いつから集まり始めたかは、この記事では書きません。各商店街の公式サイトに今回どうしても接続できず、一次資料で確かめられなかったからです。数えた人がいない数字を、それらしく書くことはしません。
10. 代官山・旧山手通り(Daikanyama)——25年かけて建てられた通り
場所:東京都渋谷区。東急東横線の代官山駅。渋谷から東横線でひと駅。渋谷から歩いても行ける距離。中目黒とは目黒川をはさんで隣り合っています。
代官山は、これまでの街とは成り立ちがまるで違います。若者が集まって街ができたのではなく、1軒の地主と1人の建築家が、25年かけて通りを設計したのです。
旧山手通り沿いにあるヒルサイドテラスは、住居・店舗・オフィスからなる複合建築で、公式の説明によれば1967年から1992年まで、数期に分けて段階的に建設されました。設計は建築家・槇文彦。事業主は地元の地主である朝倉不動産です。
槇文彦自身がこう書いています。敷地は「30年前は緑の生い茂った細長い傾斜地で、朝倉家が所有する建物が数棟あるだけだった」。地主の側の考えについては、こう続きます。
朝倉不動産は土地を活用するに当たって性急な開発を望まず、むしろ長期に渡り快適な場所として保たれるよう、環境の変化に徐々に適合させていくことを望んだ。
当初この敷地は最高高さ10メートル・容積率150%に制限された第一種住居専用地域でした。背の高い建物は建てられません。そこで、街路のレベルに店舗やレストランを置き、上に住居を載せる形が選ばれます。歩道やプラットフォーム、階段を広く取ったことが、代官山特有のゆったりした歩き心地を作りました。高さの規制が、歩き心地を作った通りです。
公式サイトは、ヒルサイドテラスは「その建築空間と、そこに展開されるプログラムによって都市文化をつくり、それは『代官山』の成立に深く影響を与えてきた」と書いています。1982年に若手建築家の登竜門となるSDレビューが始まり、1987年にホール、1992年にフォーラムが完成。1998年度のメセナ大賞を受賞しました。建物が街の名前を作った、と自認している文章です。
ついでに書いておくと、敷地には古墳の上に立つ小さな神社が含まれています。槇はそれを「東京が小さな一漁村に過ぎなかった7世紀頃に代官山に人が住んでいた証拠」と表現しました。7世紀の墓の隣にセレクトショップがあるのが、この通りです。
なお、日本のセレクトショップという業態は原宿から始まっています。1976年に開いた「ビームス」が原宿初のセレクトショップとされ、1990年代に「ユナイテッドアローズ」などが続きました。ブランドの知名度にかかわらず買い付ける人のセンスで商品を選ぶ店です。DCブランド以降、いろいろなブランドを自分の好みで組み合わせて着る風潮とうまく噛み合いました。代官山や中目黒に居心地のいい店が多いのは、この業態が成熟したあとに育った街だからでしょう。
11. 大阪・アメリカ村(Amemura)——倉庫街に喫茶店が1軒できた
場所:大阪市中央区西心斎橋。Osaka Metro御堂筋線・長堀鶴見緑地線の心斎橋駅、四つ橋線の四ツ橋駅。目印は三角公園(正式には御津公園。三角形の区画なのでこう呼ばれます)。
東京の話ばかりでは偏るので、西日本の代表を。アメリカ村は、大阪の南の繁華街ミナミにある若者の街です。この記事のなかで、始まりの年がはっきり残っている街でもあります。
商店会(アメリカ村の会)の公式サイトによれば、いまアメリカ村と呼ばれる西心斎橋(旧・炭屋町)は、かつて心斎橋筋商店街の店の倉庫、駐車場、オフィス、住宅があるだけの、商業的な賑わいから縁遠い町でした。にぎやかな商店街の、ちょうど裏側です。
1969年、空間デザイナーの日限萬里子が三角公園の前にカフェ「LOOP」を開きます。若いデザイナーを中心に感度の高い若者が集まり始め、街の空気が変わりだしました。商店会の公式サイトは、その先をこう書いています。
空いていた倉庫や駐車場など家賃の安い物件を利用して、日本ではまだ珍しく高価で入手困難だった中古レコードやジーンズ、Tシャツ、古着、サーフボードなどをフリーマーケット形式で販売。現在のアメリカ村のショップの原点が形成されたのです。
読み返してみてください。裏原宿と、ほぼ同じ文章です。使われていない倉庫、安い家賃、アメリカから来たもの、若い作り手。違うのは、こちらが四半世紀近く早かったことだけです。
テレビやファッション誌が「アメリカ村」として紹介するようになって名前が定着し、1982年に日航ホテル大阪、1983年に「無印良品」が進出して、「ヤングファッションの街」への成長が始まりました。1990年にタワーレコード、1993年にBIG STEP、1994年にOPAが開業。商店会の説明では、この10年で約10倍となる2,500もの店舗数になったとされています。
そのあとの話も書いておきます。1990年代半ばから来訪者の低年齢化、騒音、悪質な店、落書きが問題になり、2000年前後には南船場・堀江・茶屋町といった近隣へ若者が流れました。1998年に約7万人だった休日1日あたりの来訪者数は、2005年には半減したと記録されています。盛り上がりも、その後の落ち込みも、商店会が自分で書き残している。この記事で、それができた街はアメ村だけです。
12. どの通りにも共通していたこと
並べてみると、同じ型が繰り返し出てきます。
- 賃料が安かった。原宿のマンションメーカーも、裏原宿の若手も、アメ村の倉庫も、高円寺の商店街も、出発点は「その時点で安かった」ことです。表参道の並木や渋谷のスクランブル交差点から始まった街は、ひとつもありません。
- 表通りではなく、一本裏だった。裏原宿は明治通りの裏、キャットストリートは明治通りの裏、アメ村は心斎橋筋の裏。混みすぎた通りを避ける動きが、次の通りを作っています。
- 誰かが場所を貸した。大川ひとみが製作場所を提供し、朝倉不動産が急がない開発を選び、ラフォーレが地元のブランドを入れ、商店街が空き倉庫を貸しました。街は自然発生しません。
- 人が知り合いだった。裏原宿は文化服装学院の同窓と友人で広がり、セントラルアパートは喫茶店が打ち合わせ場所でした。アメ村もカフェから始まっています。だいたい喫茶店から始まるのは、たぶん偶然ではありません。
- そして、成功が街を壊した。竹下通りはタレントショップの賃料高騰でファッションの店を失い、裏原宿は地価上昇で有名店が出ていき、アメ村は人が多すぎて荒れました。有名になると、最初にそこへ来た理由(安さ)が消えます。
原宿について残されている指摘が、そのまま全体のまとめになります。原宿は大型店ではなく小資本が集客の中心を担って発展した街で、商圏の規模は渋谷や新宿よりはるかに小さい。そしてファッションの街として有名になるにつれて地価が高騰し、新しい参入が阻害されることが課題として認識されている。街の魅力と街の値段は、たいてい逆を向きます。
それでも、この街が長く続いてきた理由も残されています。「MILK」の大川ひとみの言葉です。
変な格好をしていても、何も言われないのが原宿の良さ
安い家賃はいつか上がります。この性質のほうが、たぶん街の資産です。
13. 歩くときのメモ
- 原宿・表参道:JR原宿駅/東京メトロ明治神宮前駅・表参道駅。竹下通りは駅の竹下口の正面。裏原宿は明治通りを渡った先の路地。キャットストリートを南へ歩くと渋谷に出ます。
- 渋谷:公園通りはハチ公口から北へ、坂を上ってNHKの方向。センター街と109はスクランブル交差点の西側。原宿から渋谷は歩けます。歩いたほうが、この記事の内容は分かります。
- 下北沢:渋谷から京王井の頭線。線路跡の「下北線路街」は駅の南西から北東へ細長く伸びています。
- 高円寺:新宿からJR中央線。土曜・休日は快速が止まらないので各駅停車に乗ってください。
- 代官山:渋谷から東急東横線でひと駅。旧山手通り沿いを歩くのが正解です。
- アメリカ村(大阪):心斎橋駅または四ツ橋駅。三角公園が中心。
最後にもう一度。店の名前は当てになりません。行きたかった店が閉まっていても、通りは残っています。その通りがなぜそこにあるのかを知っていれば、次の店は自分で見つけられます。そして、変な格好をしていても何も言われない場所を見つけたら、たぶんそこが次の通りです。
参考資料(この記事で実際に開いたもの)
- ウィキペディア日本語版「原宿のファッション史」(脚注265件を持つ記事。原宿・裏原宿・竹下通り・ラフォーレ・渋カジの記述はここから) https://ja.wikipedia.org/wiki/原宿のファッション史
- アメリカ村の会(商店会公式)「History」=日本語・英語・中国語・韓国語の4言語 https://americamura.jp/history.html
- ヒルサイドテラス(公式)「ストーリー」=槇文彦・槇総合計画事務所による文 https://hillsideterrace.com/about/story
- 下北線路街(小田急電鉄・公式) https://senrogai.com/
- 竹下通り公式マップ(竹下通り商店会) https://www.takeshita-street.com/
- ウィキペディア日本語版「渋谷公園通り」 https://ja.wikipedia.org/wiki/渋谷公園通り
- ウィキペディア日本語版「渋谷センター街」 https://ja.wikipedia.org/wiki/渋谷センター街
- ウィキペディア日本語版「109 (商業施設)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/109_(商業施設)
- ウィキペディア日本語版「下北沢」 https://ja.wikipedia.org/wiki/下北沢 /「本多劇場」 https://ja.wikipedia.org/wiki/本多劇場
- ウィキペディア日本語版「高円寺」 https://ja.wikipedia.org/wiki/高円寺
- ウィキペディア日本語版「アメリカ村」 https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ村
- ウィキペディア日本語版「A BATHING APE」 https://ja.wikipedia.org/wiki/A_BATHING_APE /「ビームス」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ビームス /「コム・デ・ギャルソン」 https://ja.wikipedia.org/wiki/コム・デ・ギャルソン
この記事で書かなかったこと。渋谷区の公式「通りの名前」ページ、ビームス・ユナイテッドアローズ・アンダーカバーの各社サイト、高円寺の各商店街の公式サイト、東京高円寺阿波おどりの公式サイトには、今回どうしても接続できませんでした(403 または接続不可)。そのため、これらが出典になるはずだった数字——各社の沿革の年号、高円寺の古着屋の軒数、阿波おどりの規模——は本文に書いていません。また「裏原宿」単独のウィキペディア記事には出典不足・独自研究の告知が付いているため、裏原宿の記述はすべて「原宿のファッション史」から取りました。中目黒については一次資料に届かなかったので、独立した節を立てていません。