神保町の古書店で、1980年代のフランスのモード誌をまとめた復刻本をめくっていたことがある。色あせた紙面の隅に、パリの空気を「東洋からの衝撃」と評した見出しがあり、そこに並んでいたのは聞き慣れた日本人の名前だった。半世紀近く前、なぜこの国のデザイナーたちは、遠く離れたパリのモードをここまで揺さぶることができたのか。その問いに対する編集部なりの見立てを、世界のモードへの衝撃・波及の度合いが大きいと考えた順に並べてみたのが、このランキングだ。断っておくと、これは公式の序列でも絶対的な優劣でもない。あくまで「衝撃の伝わり方」という一つの物差しで見た、編集部の見立てにすぎない。

ハンガーに掛かった衣服を線画で描いたイメージ

第1位 高田賢三(KENZO)

1970年、パリのギャルリー・ヴィヴィエンヌにブティックを構えた高田賢三は、パリのモードに本格的に乗り込んだ日本人デザイナーの先駆けとして語られることが多い。花柄やパッチワーク、民族的なモチーフを臆せず組み合わせた鮮やかな色彩は、当時のパリのモードにはなかった空気を持ち込んだ。

後に続く日本人デザイナーたちが「パリで勝負する」という選択肢を持てたのは、高田賢三がその扉を先にこじ開けていたからだ、という見方も少なくない。今回のランキングで1位に置いたのは、単発の衝撃の大きさというより、そこから始まった流れの起点としての重みを踏まえてのことだ。

第2位 森英恵(Hanae Mori)

森英恵は「蝶」のモチーフをまとった華やかなデザインで知られる。ニューヨークでの初コレクション「East Meets West」を1965年に発表し、その十二年後の1977年、パリ・オートクチュール組合(Chambre Syndicale de la Couture Parisienne)の会員に認定された。アジア人のデザイナーとしては初めてのことだったと記録されている。オートクチュールという、パリのモードの中でもとりわけ閉じられた領域に正式な席を得た事実は、当時の重みを考えると小さくない。

技法や素材の目新しさで場をざわつかせたというより、パリのシステムそのものに「認められた」という意味で、森英恵は後続の日本人デザイナーたちの足場を静かに固めた存在だと言える。

第3位 山本寛斎(Kansai Yamamoto)

1971年、ロンドンで日本人デザイナーとして初めてショーを開いたのが山本寛斎だ。歌舞伎の衣装や日本の伝統文様を思わせる強烈な色彩とシルエットは、当時のロンドンのモード関係者にとって明らかに異質なものだった。その少しあとにデヴィッド・ボウイがジギー・スターダスト期の舞台衣装として山本寛斎の作品をまとったことも広く知られている。ファッション誌の外側、ロックのステージという回路を通じて、その名前と日本のデザインの強度は、モード業界の想定より広い層に届くことになった。

第4位 三宅一生(Issey Miyake)

三宅一生の名前が挙がるとき、まず語られるのは「一枚の布」という発想だ。体を締め付ける裁断ではなく、布と体の関係そのものを設計し直す姿勢は、独自の熱加工でプリーツを定着させたライン「PLEATS PLEASE」(1993年)や、一枚の布から衣服を生み出す「A-POC」(1998年〜。名称は a piece of cloth の略)といったプロジェクトに結実していった。

見た目のデザインだけでなく、素材と製法そのものを探究の対象にするという発想は、パリのモードが「シルエットの美しさ」を競っていた土俵の外に、もうひとつ別の競技を立ち上げたようなものだった。三宅一生の衝撃は一シーズンの話題では終わらず、その後何十年にもわたって服づくりの前提を問い直し続けている。

第5位 川久保玲(COMME des GARÇONS)

1981年前後、川久保玲がパリで見せたコレクションは、黒を基調に、左右非対称のシルエットと、あえてほつれさせた仕上げをまとうものだった。当時の海外メディアの受け止め方は分かれていたと伝えられている。「美しくない」と切り捨てる声もあれば、「服とは何か」という前提を揺さぶられたと語る声もあった。賛否そのものが大きな反響を生んだという点で、川久保玲のパリ・デビューは「衝撃」という言葉が最もよく似合う出来事のひとつだったと言えるだろう。

当時の欧米メディアの一部には、扇情的な言葉づかいで日本人デザイナーの表現を語る見出しもあったと言われている。本記事ではそうした言葉づかいをそのまま使うことは避け、「黒・非対称・ほつれをまとった表現が賛否を呼んだ」という受け止められ方の分かれ方そのものを、衝撃の大きさの物差しとして扱っている。

第6位 山本耀司(Yohji Yamamoto)

川久保玲とほぼ同じ時期、1981年前後のパリで、山本耀司もまた黒を基調にしたコレクションを発表している。ドレープをたっぷりと取り、体のラインを強調しない服のつくりは、当時のパリのモードが得意としていた「体を美しく見せる」という文法とは距離を置くものだった。

川久保玲としばしば並べて語られる山本耀司だが、そのアプローチは同じではない。装飾をそぎ落としたドレープと黒という共通項の奥に、それぞれ別の哲学があったからこそ、二人がほぼ同時期に登場したこの1981年前後のパリは、日本人デザイナーの衝撃が一過性の流行ではないことを世界に印象づける瞬間になった。

第7位 渡辺淳弥(JUNYA WATANABE)

コム デ ギャルソン出身の渡辺淳弥は、素材とパターンの実験に軸足を置くデザイナーとして知られている。撥水素材や機能性ファブリックといった、それまでモードの主役ではなかった生地を積極的に取り入れ、パターン自体を工学的に組み立てていくアプローチを続けてきた。見た目の奇抜さよりも服の構造そのものへの探究心で評価されてきた点は、川久保玲から受け継いだ姿勢を独自の方向へ発展させた例として語られることが多い。

第8位 高橋盾(UNDERCOVER)

高橋盾が手がけるUNDERCOVERは、裏原宿と呼ばれたエリアから出発したブランドだ。パンクのDIY精神とアヴァンギャルドな構築性を組み合わせた表現は、渋谷・原宿発のストリートカルチャーが単なる若者文化にとどまらず、モードの語彙そのものを更新しうることを示した。パリの大メゾンとは違う回路——ストリート、音楽、サブカルチャーを経由して世界に届いたという点で、高橋盾の衝撃はそれ以前の世代とは異なる伝わり方をしている。

第9位 阿部千登勢(sacai)

sacaiを率いる阿部千登勢は、異なる素材やアイテムを一着の中で"接ぎ木"するように組み合わせる手法で知られている。ミリタリーとレース、スウェットとテーラードといった、本来なら交わらないはずの要素をひとつの服の中に同居させるハイブリッドな設計は、現在も世界的なコラボレーションの相手として引く手あまたである理由になっている。

過去の衝撃を懐かしむ存在ではなく、今なお現在進行形で世界のモードに影響を与え続けている点で、このランキングに入れないわけにはいかない存在だ。

第10位 NIGO®(A BATHING APE、現 KENZO アーティスティック・ディレクター)

A BATHING APEの創業者として知られるNIGO®は、ストリートウェアというジャンルを原宿発のカルチャーとして世界に広めた存在として語られる。モード誌の外側にあったはずのストリートの熱量を、グローバルなファッションビジネスの主要な文法のひとつに変えた功績は大きい。

そのNIGO®が、現在はKENZOのアーティスティック・ディレクターを務めている。1970年に高田賢三が開いた扉の先に、半世紀を経てストリート出身のデザイナーが立っている。1位から10位まで並べてみて見えてくるのは、そういう静かな、しかし確かな円環だ。

高田賢三からNIGO®まで、10人が歩んだ道はそれぞれまったく別々でありながら、どこかで確かにつながっている。パリという場所そのものを揺らした人もいれば、ストリートという回路を通じて世界に届いた人もいる。衝撃の伝わり方は一様ではないが、そのひとつひとつが「日本発のデザイン」という認識を世界のモードの中に刻んできた。ここに挙げた見立てが絶対の答えとは限らない。それでも、次にヴィンテージのKENZOや一枚の黒い服に出会ったとき、その背景にある半世紀の物語をふと思い出すきっかけになれば、と思う。

ここで触れたブランドの現在の姿は、各公式サイトで確認できる。ISSEY MIYAKE(isseymiyake.com)、Yohji Yamamoto(yohjiyamamoto.co.jp)、sacai(sacai.jp)、KENZO(kenzo.com)。コレクションやラインナップは随時更新されるため、最新情報は各公式サイトでご確認を。

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